東京は新宿区の一角に、高品質なヨーグルトを製造する神楽坂乳業牛込工房があります。ひとりの医師の熱意と神楽坂という土地の歴史が出会い誕生しました。
『働きたいけど働けない』人のために
医学の進歩により、6割以上の方が治る病気となったがん。しかし不治の病として恐れられていた頃のイメージは根強く残っており、がんと診断された勤務者の3人に1人は失職してしまいます。またわが国では少子高齢化、労働力不足が大きな社会問題になっており、どんな方でも働ける環境、多様な働き方があっていいはずなのに、いまだに国民の大半は長時間労働を強いられています。
そこで林は還暦を機に大学病院を退職し、短時間労働を原則とする神楽坂乳業を設立して、企業人として新しい働き方を社会に提案していくことにしました。病気はもちろん、子育てや介護などで、やむを得ず時短勤務を強いられていた方々でも、胸を張って堂々と働ける働き続けられる場所をつくるためです。
医師としての業務と会社経営を両立させるため、まずは当時勤務していた大学病院がある新宿区で工場となる物件探しを始めました。しかし林の目に叶う場所はなかなか見つかりません。副都心であり、また自身の限られた資金内という条件付きですから容易なことではなかったのです。立地条件を23区全域に広げ、工場専門の不動産サイトを毎日チェックしても見つからず。手応えのないまま、3ヶ月が過ぎていきました。
小さなほこらが取り持った運命の出会い
ある土曜日の夜、降りしきる雨の中でいつもの不動産会社を訪ねた帰りのことです。江戸川橋と牛込柳町の途中にある、元赤城神社で立ち止まりました。どこの町にもあるような小さなほこらです。「これはもう神頼みしかないな」。物件探しに疲れ果てていた林は、半ば自嘲気味にそう呟きます。しかし何気なく目をやった説明パネルを見て愕然としました。そこには「神埼の牛牧」と書かれており、この一帯は平安時代から多くの牛が飼われていた地域であること、また神楽坂という地名になってからも多くの牧場や牛乳の販売所で栄えていたことが記されていたからです。
自分が会社を立ち上げるのはやはり神楽坂しかない。林は神様が後押ししてくれていると感じ、やる気を取り戻しました。お賽銭も奮発しましたが、神様は林を見捨てませんでした。不動産サイトで検索すると、なんと昨日までなかった理想の物件が現れていたのです。
東京初。未経験で乳製品製造業許可を得る
「無理ですよ。経験が無い上に個人でしょ?」
ヨーグルト製造の許可を得るため、林が初めて保健所へ行った際に言われた言葉です。乳製品は他の食品よりも規制が多く、製造認可を得るのが非常に困難。まして未経験の個人ともなれば前例が無いとのことでした。しかしそう言われて逆に火がついた林は毎週のように保健所へ通い、山のような課題をひとつひとつクリアしていきます。苦労の末に出会った工房物件は、以前は印刷屋が入居していたという築40年のアパート。見た目はお世辞にも近代的とは言い難いものの、そのつくりは乳製品の工場として理想的でした。7%の斜度を持ったコンクリートの打ちっぱなしの床があり、木造のため改築も容易で、保健所が求めるさまざまな条件を次々とクリアすることができたのです。林の考えに共感した建築業者が破格の料金で工事を請け負い、事務所や細菌検査室も設置することができました。そして半年がかりですべての課題をクリアし、ついに保健所から乳製品製造業許可を得ることに成功しました。
外科医が衛生管理する工房
当初はOEMによる製造を考えられていたという神グルト。しかし林が求めるクオリティのヨーグルトを製造できる食品業者と出会うことができなかったため、OEMは断念せざるを得ませんでした。その原因のひとつが衛生管理でした。外科医として医療現場を経験してきた人間にとって、一般的な食品工場の衛生レベルは納得のいくものではありませんでした。牛込工房では高品質なヨーグルトを製造するために必要なすべての機器を完備したうえで、外科医としての衛生管理を実施。材料の調合から加熱殺菌、ガラス瓶への充填、発酵、熟成そしてパッケージングまでワンストップで行っています。
腸を知り尽くした医師がつくるヨーグルト、そして未来の働き方の提案。今日も牛込工房では新たなストーリーが創られています。
《神崎の牛牧》
文武天皇の時代(701-704)、現在の東京都心には国営の牧場が何か所もありました。大宝含年(701年)、大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧かんまき)が39か所と、皇室の牛馬を潤沢にするために天皇の意志により32か所の牧場(勅使牧ちょくしまき)が設置されましたが、ここ元赤城神社一帯にも官牧の牛牧が設けられました。早稲田から富山にかけた一帯は牛の放牧場でしたので、『牛が多く集まる』という意味の牛込と呼ばれるようになりました。牛牧には乳牛院という牛舎が設置されて、一定期間乳牛を床板の上で飼育し、乳の出が悪くなった老牛や病気にかかったものを淘汰していました。
時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で『生類憐みの令』が解かれ、ペリー来航で鎖国令が解けた事などから欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市谷加賀町、市谷仲之町、市谷本村町と、牛込にはたくさんの乳牛が飼われていました。
◆引用元:平成9年度JA東京グループ業協同組合法施行五十周年記念事業